テレビ東京誕生秘話~開局1年で13億8千万の赤字~

以前テレビ朝日は日本教育テレビだった。というコラムを書きました。同様にテレビ東京も教育テレビでした。

その名も「科学技術振興財団テレビ事業本部」愛称:東京12チャンネル

ではテレビ東京の成り立ちを見ていきましょう。

東京…戦後NHKテレビが3チャンネルに開局。日本テレビが4チャンネルに開局しました。

3と4の間は隙間が大きいので隣のチャンネルでも放送ができるのですが、他のチャンネルではすぐ隣にテレビ局を作ることはできません。1つチャンネルを空けなくてはなりません。
当時の日本のテレビ放送割当は1から12チャンネルまでしかありませんでした。

するとあと残りのチャンネルはすぐわかりますよね。
1・6・8・10・12
1と12は米軍が使用していました。(当初は3~6以外全てを米軍が使用)

まず1が米軍から返還されNHK教育テレビが開局。総合と教育で1チャンネルと3チャンネルを交換します。

そして6チャンネルはラジオ東京(現・TBS)、8チャンネルはフジテレビ、10チャンネルは日本教育テレビ(現・テレビ朝日)と次々と放送局が開局していきました。もちろん色々な会社がテレビ局をやりたい!と名乗りを挙げましたが単体では認められず、フジテレビは文化放送・ニッポン放送などにより設立。日本教育テレビは東映・旺文社などにより設立されたのです。

1960(昭和35年)、米軍がレーダー用に使用していた12チャンネルが日本に返還されます。そして郵政省は12チャンネルにテレビ局を割当てます。当時テレビは12チャンネルまで、したがって東京で最後のテレビ局となるわけです。

当然いろんな会社がテレビ局をやりたい!と申請しました。

・ラジオ関東(現・RFラジオ日本)
・千代田テレビ
・日本電波塔
・日本科学技術振興財団
・アジアテレビ

原則として申請が競合すると、相談により一本化するなどして調整をします。この中の1社に「はい免許」と与えることは少ないのです。しかし、郵政大臣は「財団法人・日本科学技術振興財団」に免許を交付します。

これに怒ったのは競合他社。90年代まで裁判沙汰になっていました。なぜそんな財団に免許が下りたのか。少し長い話になりますがお付き合いください。

当時は中卒で集団就職というのがほとんどでした。企業内の職業訓練所を卒業すると高卒扱いとなり給料が上がる。そのため実務とスクーリングの場が求められていたのです。政府はそのスクーリングの場として12チャンネルを活用しようと考えました。

日本教育テレビとは違い、一般的な教育ではなく、企業の技術者を育成し、科学技術水準を向上させることが目的なのです。

郵政省からは
科学技術教育番組60%
一般教育番組15%
教養・報道番組25%

を放送すること。という条件が出された。

足すと100%になる。という事は娯楽番組は放送できないのだ。

そんなテレビ局誰がやりたいか。儲かるわけが無い。いや儲かるどころか・・・こういった理由から科学技術振興財団テレビ事業本部・東京12チャンネルが1964(昭和39)年4月12日に開局しました。番組の内容は想像を絶する。朝8時から午後11時まで「通信制工業高校講座・数学Ⅰ」「のびゆく原子力」といった番組が並ぶ。一般の人が見るかもしれない番組はバックに朝日新聞がついていたので、朝日新聞ニュースくらいだろうか。

そして広告収入で運営する民間放送にもかかわらずCMが無い。当時、東京12チャンネルの収入は財界が結成した「科学テレビ協力会」からの月2億円のみ。

毎月数千万の赤字。

開局から1年で赤字は13億8千万円となった。

当時の経済水準から言ったら途方もない金額である。このテレビ局がうまく行くわけが無いんです。どう考えても。そして東京12チャンネルは倒産の危機に追い込まれます。

1966(昭和41)年1日の放送は5時間半に。500人の従業員は300人に。

しかし1967(昭和42)年徳光和夫氏の父親が12チャンネルに救いの手を差し伸べる。それはまた次回

この記事を書いた人

TOPPY/川合登志和

記事や脚本を書いたり、名古屋のラジオやテレビの構成作家をしたり出演したり、地域のFMラジオで喋ったりディレクターしたりミキサーしたり、講師したり、サイト作ったりしてます。

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