ステーキのあさくま(名古屋・名東区)※2004年撮影
ステーキのあさくまのステータス
ステーキのあさくまの創業者である、近藤誠司氏の訃報を新聞で知り、ついこの間までテレビに登場していた姿を目にしていただけに驚きとともに、あさくまへの感慨がこみあがってきたので書き記すことにします。
今では、家族でファミリーレストランなどに外食というのはそれほど珍しいことではなくなりましたし、価格帯に応じてジャンルに応じて様々なチェーン店が多彩に存在しているので、予算や雰囲気に応じて選択して訪れることができます。
ところが、これが30年ほど前は全く状況が違っていました。そのなかで、ステーキのあさくまは特にこの名古屋周辺地域において、特別な存在でした。
特別な外食
ステーキのあさくまが、郊外型ステーキ店として日進町(現・日進市)赤池スタートしたのが1962(S37)年。日本初のファミリーレストランといわれている、すかいらーくが1号店を出店したのが1970(S45)年なので、あさくまがいかに未来的で先見性のあるお店だったのかが、この創業の時期を見てもわかります。
私が少年時代を過ごした昭和50年代後半でも、まだまだ「あさくま」は特別な存在であり続けていました。既に他にもファミレスはあったのですが、まず外観から違いました。外国を思わせるような白壁に間接照明、濃厚なコーンスープに、分厚いステーキ。子ども向けデザートには花火の演出があるなど、名古屋の昭和の子どもにとって、そのあさくまでの時間は非日常。感動すら覚える時間・空間でした。
話題性にも事欠かなかった
あさくまの創業者である近藤氏は自らメディアに登場する、いわば名古屋の名物社長のはしりの存在で、ラジオでは歯に衣着せぬトークを展開し、見た目にも印象的な風貌でテレビにもたびたび登場。ただ、それだけではありませんでした。
忘れもしない1982(S57)年。あさくま藤ヶ丘店を、テレビドラマのロケのために爆破してしまうのです。当時大人気だったテレビ朝日のドラマ「西部警察」。このドラマは大胆な爆破シーンも売りになっており、また、全国各地でのロケーションが敢行されていました。
名古屋では煙突を倒す、遊園地のなかでカーチェイス、そしてこの、実際に営業しているレストランが爆破でふっとぶのが目玉となりました。当時、家族で車で通りがかった際に見たら、店の半分が本当に爆破されて燃えた残骸になっていて、幼心に強烈なインパクトとなりました。
また、のちに、女性のパートタイマーを取締役に起用した際にも大きな話題になり、私は当時、外食でアルバイトをしていたものですから、業界では大きな騒動となっていたことを覚えています。
学生「ステーキ」が思い出
分厚いステーキ専門店ですから、敷居が高いだけのお店かと思いきや、それだけではなかったのです。あさくまといえば「学生ステーキ」。今は「学生ハンバーグ」に改名していることからお察しください…という代物ではあるのですが、それでも、学生でもステーキ専門店で肉を味わえる金額で出したいというのも創業者の思い。当時、伝わってきました。
実際、学生の頃に家族とではなく友達とだけで「あさくま」を訪れた際には、大げさでなく、大人になったようなそんな気がしたものでした。この感覚は自分だけでなく、名古屋のある年齢層以上の方には結構共感していただけるエピソードで、他のファミレスやステーキ店では思えなかった感情です。
「ある年齢層以上」なのです。
ところが、バブルが崩壊してデフレになり、ファミレスや他のステーキチェーンも名古屋に攻勢をかけるようになります。あさくまも「あさくまジュニア」というファミレス業態や、「あさくまゴーゴーカフェ」、高級レストラン「プリマベーラ」と果敢にチャレンジするのですが、2006(H18)年、厨房機器販売のテンポスバスターズという会社の傘下に入ることになります。
ただ、その後は持ち直し、現在はステーキのあさくまを36店舗(東海3県下には20店舗)その他の業態を28店舗運営しており、かつての雰囲気を取り戻しつつあります。
さらに、創業者の近藤氏はずっとメディア露出を続けており、現在も三重テレビなどで放送されている「激カラ!スターチャンネル」で収録場所として店舗を提供したり、「あさくまオーナー」という肩書きで登場し、新業態の「ビフテキのあさくま」への思い入れを熱く語られるなど、元気なお姿をテレビで拝見していましたので、訃報には驚きました。
特別な外食だった「ステーキのあさくま」。幼少期のあの高揚感、学生時代の背伸び感、大人になってからの懐古感。人生に渡る心の琴線に触れる「食事」を提供し続けてくださっていたんだなあ…と、感慨深く思います。
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