写真:中日新聞「テレビ愛知開局特集」(1983.9.1付)
私は小学生の頃からずっとテレビ愛知が大好きで、学校から帰ると、意味もよくわからないのに、株式ニュースを見て、5時からはホットレポート、
6時からはテレビ東京の安っぽいアニメ、そして6時半からは、古いアニメの再放送を見るという毎日を過ごしていました。そして今でも、テレビ東京の経済番組が好きですし、NEWS FINEは毎日(録画して)見ています。
なぜそれほどまでにテレビ東京系列が好きになったのか、もちろん、他の局と一線を画す、そのスタイルが好きという点もありますが、やはり何といっても大きい要因なのは、系列局であるテレビ愛知が、私の人生のなかで唯一、生まれた後にできた(地上波)テレビ局という点でしょうね。
以前にも書いたことがありますが、今から26年前、夏休みの昼下がり…、当時、「35」と「33」を見るためだけにあった、テレビの「UHF」ツマミを、何を思ったか、グイっと左に回したら、画面に「25」という数字が登場したんですよ。
でも、番組は一切放送されていなくて、ただずっと「25」という数字が映っていて、音楽が流れているだけなんです。当時、まだ私は7歳でしたし、名古屋に新しいテレビ局ができるという情報は知らず、その衝撃は今でも忘れられません。
新聞にも載っていない、あるはずの無いチャンネルが、いきなり目の前に登場したのですから。何度も繰り返された同じ曲の合間に何度も入った「テレビ愛知です」というアナウンスを聞いて、洗濯物を片付けていた母親に、「テレビ愛知!テレビ愛知だって!」と、興奮して報告したことを今でも鮮明に覚えています。
7歳ながら、ラジカセにライン入力で一生懸命録音したその時のカセットテープは、今も大切に保管してありますし、開局日の新聞も、7歳の自分が保管したものが、今でも残っています。まさか、まさかね。
もうあきらめてましたよ。まさか、その頃にタイムスリップできる日がやってくるとは、思っていませんでした。録画していた人が、いたんですね!映像を見て、26年前の興奮をはっきり思い出しました。このテレビ愛知のことだけでなく、幼い頃はもっと多感で、今では当たり前のことにも、いろいろ感動していたことも…。
もう、その感動を報告できる人はいなくなってしまったけど、久しぶりにあの頃の気持ちを思い出すことができました。年齢や経験を重ねていくうちに、次第に鈍っていく感受性。意識的に磨いていかなくてはいけないなと、これを見て、当時の自分を思い出して、心新たになりました。まあ、興味の無い人にとっては、なんじゃこりゃって映像でしょうけどね(笑)。
コメント
この記事を見ていて途中で気づき衝撃を受けたことがあります。
それは中日新聞の写真が載ってますが、
写真がカラー!!ということです。
中日新聞では26年前からカラー写真が掲載されていたのでしょうか。
僕の実家は名古屋ですが、新聞は朝日新聞で
記憶の限りでは写真がカラー化したのは1990年代だったと
記憶しています。
中日新聞が26年も前にカラー写真を掲載していたのだとすれば
朝日より中日の方が印刷技術に関して先進的だったという事なのでしょうか。
しかし26年も前の新聞が保存されてるってすごいですね。
時々「県図書」で昔の新聞を調べることもしましたが、
カラーでは保存されてなかったような記憶があります。
と、本文と関係ないどうでもいいコメントですいません。
このサイト非常に何度も記事を読み返してる部分が多いです。
これからも頑張ってください
>拓也さま こんにちは
いつもごらん頂ありがとうございます。
中日新聞は…どうでしょう、私の記憶のなかでは、
幼い頃からサンデー版が既にカラーだった記憶があります。
実物ではなく、複写で見ただけなのですが、
三重テレビが昭和44年に開局した際の中日新聞の特集記事は、
既にカラーでしたので、
中日新聞のカラー化はそれよりも前のことだと思います。
朝日新聞は名古屋でのシェアが低いですから、
名古屋でのカラー化が遅かったのかもしれませんね…。
これからも、よろしくお願いいたします。
テレビ大阪は私の生まれたあとでしたが、
当時はケーブルもなく、完全にエリア外でした。
開局当時から見られていたなら、私の人生も
少し変わっていたかも知れません。
>とくながたかのりさま こんばんは
どうでしょうね~。
私の場合は、テレビ東京の株式ニュースを見ていたからこそ、
経済や株式市場の仕組みに興味をもったという面は確かにありますけど…ね。
テレビ愛知が開局して、もう26年ですか。
わたしは当時、開局をめぐる事業者の暗闘を見てました。
CATVなどを指すニューメディアという言葉が流行語となるなど、メディア業界が大きな転換期を迎えていた時期でした。メディアの世界で圧倒的な影響力を保持していた新聞業界は、やがて主役の座を奪われるのではないかという危機感を持ち始めていました。
さらに新局の登場は、新聞&放送の系列バランスの再編成に他なりません。そんな疑心暗鬼のるつぼの中で、新しい県域U局テレビ愛知が登場しようとしていたんです。
テレビ愛知を押し立てて乗り込む日経新聞は、中日新聞と手を組みました。始まるのは出資比率の陣取り合戦。でもメディア独占排除の原則があるので、ダミー株主を使った陣取り合戦ですね。朝、毎、読など全国紙や他のメディア資本も参戦。岐阜放送、三重TVもテレビ愛知の電波が越境するとスポンサーを取られると言って参戦しました(三重TVは途中で手を引いたかも)。
東海郵政局(当時の所管)を舞台に、資本比率争奪戦はもう熾烈。いろんな名前が登場しましたね。確か100人以上。元愛知県知事の桑原幹根は朝日のダミーといわれてました。
結局、日経と中日で過半数の51%を確保。このときの日経の責任者が当時専務の新井明(後に社長)。彼は若い頃、田中角栄の番記者。田中角栄は30代で郵政大臣になり許認可利権で権力基盤の基礎を築いたと言われてます。開局当時はロッキード裁判の被告でしたけど。初代社長は黒川洸。日経会社情報を立ち上げたやり手ですね。
テレビの力がピークと転換期を同時に迎えていたころの出来事です。今日のテレビの凋落とデジタル化という転換期と表裏をなす、大きな潮目だったと思います。
>masaさま こんにちは
興味深いお話ありがとうございます。
何分、私は当時まだ7歳でしたので、そのような綱引きなど
全く想像することもなく、新局の誕生を素直に喜んでいました。
その後、ある方から、テレビ愛知の社史や、
テレビ愛知開局にまつわる、
テレビ東京・テレビ大阪・日本経済新聞の社史の映しをいただき、
また、三重テレビの社史も入手し、隅から隅まで読みましたけれども、
そのあたりの歴史は当然、書かれていないですから、
とても勉強になりました。
大阪府と愛知県に誕生する「独立U局」を、
いかにテレビ東京と日経のものにするか。
そこには壮絶な戦いがあって当然ですよね。
今やテレビは、かつてピークの頃の栄光を失いつつあるのと同時に、
余裕や良心も消え、ギスギスしたものが画面から伝わってきます。
昔のテレビ番組を見ると、それを実感しますね。
ありがとうございました。